日本海 その深層で起こっていること

日本海 その深層で起こっていること

著者 蒲生俊敬(がもう・としたか)

プロローグ

 ぼくたちの住む日本列島と、その北西側に広がる日本海とは、切っても切れない〝強い絆〟で結ばれています。

 小松左京による空想科学小説に『日本沈没』(1973年刊行)があります。日本列島周辺の地殻・マントルに大規模な異変が起こり、日本列島がそっくり海に沈んでしまう話です。上・下巻あわせて約400万部という空前のベストセラーとなり、1973年と2006年の二度にわたって映画化されました。テレビドラマやラジオドラマにもなりましたから、ご記憶の方も多いことでしょう。

『日本沈没』はもちろん架空の話です。しかし、もしこれが本当に起こったとして、日本列島がなくなってしまったら、日本海はどうなるでしょう? 日本海を太平洋から区分けしている日本列島という陸地がなくなるのです。日本海とよばれていた海域は太平洋に飲み込まれ、「日本海」という名称もまた、消失してしまうに違いありません。

 では、その逆の、「日本海がなくなる場合」はどうでしょうか。そもそも日本列島は、かつてユーラシア大陸の一部でした。日本列島が大陸から離れたのは、今から1500万~2000万年ほど前のことで、両者のあいだにできたのが日本海です。日本海が存在しないとなれば、日本列島はふたたび、ユーラシア大陸と一体化しなければなりません。こんどは、「日本列島」という名称が意味を失うことになるでしょう。

 日本海はあって当たり前、空気のような存在としてしか意識していない方も多いと思います。しかし、ちょっと待ってください。日本海は日本列島にさまざまな恩恵をもたらしてくれる、ぼくたちにとってなくてはならない大切な存在なのです。本書では、日本海の秘める「おどろきの働き」をご紹介しながら、日本海の重要性についてさまざまな角度からお話ししていきたいと思います。どうぞ最後まで、お付き合いください。

 その前に自己紹介を。ぼくはごくふつうの(―と、自分では思っていますが)海洋の研究者で、人付き合いは苦手ですが、性格はいたって楽天的なB型人間です。東京大学の柏キャンパスにある大気海洋研究所に勤務しています。四十数年前に理学部の化学科を卒業したぼくは、大学院生としてこの研究所の門をたたき(当時は中野キャンパスの「海洋研究所」でした)、それ以後の人生の大半をこの研究所ですごしてきました。地球表面の7割におよぶ、この巨大で、に満ちた海に興味を惹かれ、以下のような化学的観点から、海洋観測と研究三昧の日々を送ってきたのです。

 海水の化学的性質は、水温や塩分も含めて、海を特徴づける最も基本的な要素です。海水の主成分が塩化ナトリウム(食塩)であることはよく知られていますが、ほかにもカルシウムやマグネシウム、鉄・亜鉛・銅といった金属元素、ウランやプルトニウムのような放射性元素、酸素や二酸化炭素などの気体成分……と、地上に存在するあらゆる元素や化合物が少しずつ溶け込んでいます。

 それらの各物質については、正確な濃度はどのくらいなのか、どんな濃度分布をしているのか、時間的・空間的にどんな変化をしているのか、そして海洋の循環や生物の活動、海洋汚染、海底熱水活動、地球温暖化などの諸現象と、どこでどう関わっているのか……等々、ぼくたちの住む地球の環境を知るうえで重要な研究テーマが目白押しです。問題を解く第一の手がかりは、なんといっても実測データです。研究船による調査航海に参加して、試料を採取します。そして船上や陸上の実験室で精密な化学分析を行い、データを蓄積していきます。

 太平洋やインド洋といった広大な外洋域を対象に研究を進めるかたわら、日本の近海、特に日本海を調査する機会も多く、これまでに計8回、日本海での研究航海に参加しました。

 研究船で初めて日本海を訪れたのは1977年で、もう40年近く前のことになります。当時のぼくは、研究が少しずつ軌道に乗り始めた大学院博士課程の学生でした。日本海は本州と隣接しているので、他の海洋に比べてアクセスが容易です。木戸を開ければすぐ目の前にある庭のように、身近で親しみを感じさせてくれる海。冬を除けば、海面はおおむねおだやかで、船が大揺れすることも少なく、調査・研究がはかどります。

 その第1回の航海で、日本海の、深さ3000メートルを超える深海から大量の海水を採取し、その中に含まれる放射性核種の炭素14を初めて計測しました。そのデータから、日本海の深層循環の時間スケールを初めて決定することができ、この成果を中心に博士論文をまとめました。

 面積だけをみれば、日本海は全海洋のたった0.3パーセントを占めるにすぎません。無視されてもしかたのないミニサイズです。ところがどうして、日本海は独立した海洋としての機能をりっぱに備えているのです。

 今から20年前、岩波書店発行の月刊誌「科学」に、日本海に関する小論を寄稿したことがあります。その中で「日本海の深層循環系は、それだけで完結しているという点で、世界の海洋大循環系のひとつのミニチュア版とみることができよう」と書きました。正直にいえば、そのときは「ちょっといいすぎかな」という不安ももっていました。

 しかし―、この着想は幸い、その後の20年間に蓄積された国内外のさまざまな観測データとのあいだに齟齬を生じることなく、日本海のキャッチフレーズとして「ミニ海洋」が人口に膾炙するようになりました。そればかりか、日本海は〝炭坑のカナリア〟として世界中の海にこれから現れてくる環境変化を先取りし、ぼくたちに警告を発してくれる頼もしい海であることから、わが国のみならず、海外の多くの研究者からも注目される存在となっています。

 過去に目を向けてみると、ぼくたちの祖先は、日本海の恵みをめいっぱいに受けたこの日本列島で、高度な独自の文化を発展・成熟させてきました。

 地球は、太陽からほどよい距離にあるおかげで、生物にとって住みやすい環境が保たれているとよくいわれます。日本列島もまた、ユーラシア大陸から近すぎず遠すぎず、実にほどよい場所に位置しています。つまり、「日本海のサイズ」がまさに絶妙なのです。

 もし日本海と日本列島との位置関係が今のようでなかったら、日本列島の環境や、そこに住むぼくたちの歴史や文化は、大きく異なっていたことでしょう。大げさではなく、「今とは違う日本」になっていた可能性があるのです。

 日本列島の成り立ちとぼくたちの暮らしに深く、本質的な影響を及ぼしてきた日本海。「ミニ海洋」として世界中の注目を集める日本海。最も身近なこの海には、どのような が隠されているのでしょうか。

 それでは早速、ふしぎの海・日本海へと、船出することにいたしましょう。

著者 蒲生俊敬(がもう・としたか)

一九五二年、長野県上田市生まれ。東京大学理学部化学科卒業。同大学院理学系研究科化学専攻博士課程修了。理学博士。東京大学海洋研究所助手、同助教授、 北海道大学大学院理学研究科教授を経て、東京大学大気海洋研究所海洋化学部門教授。専門は化学海洋学。海水中に溶存する気体成分・放射性核種等を用いた海 洋の深層循環や海底熱水活動に関する研究により、日本地球化学会賞・日本海洋学会賞・海洋化学学術賞(石橋賞)を受賞。研究船や潜水船によるフィールド調 査をこよなく愛し、これまでの乗船日数は一七四〇日に及ぶ。著書に『海洋の科学』(日本放送出版協会)、『海洋地球化学』(講談社)など。

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日本海 その深層で起こっていること

著:蒲生 俊敬

世界中の海洋学者が注目する「ミニ海洋」=日本海。かつて“死の海”だった日本海を、生命の宝庫にした8000年前の出来事とは?

定価 : 本体860円 (税別)

ISBN : 978-4-06-257957-5

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