脳・心・人工知能

脳・心・人工知能

著者 甘利俊一(あまり・しゅんいち)

数理で脳を解き明かす

はじめに

 私たちは文明や社会について思索し、宇宙の起源を探求し、また人類の歴史に想いを馳せる。壮大なビジョンに感動し、愛の物語に心をふるわせる。もっと身近には、今日の仕事の計画を練り、休日の楽しみを考えては心を躍らせる。これはみな、私たちの「脳」のなせる業である。


 では、脳はどのようにしてこの世に現れたのか、それはどんな仕組みで働くのか、さらには、脳に宿る「心」のありようを考えてみたくなる。


 私は数理工学を専攻してきた研究者である。「数理」とは数学的な思考のことであって、人類の文明とともに勃興した。いまから5000年も昔のバビロニア文明の時代に、数理的な思考が記された粘土板が残っているのは驚きである。その私が、数理の立場から脳に興味を持ち、数理で脳の秘密を解き明かすことができないかと生意気にも考えた。それから50年以上が過ぎた。


 数理工学とは、工学の諸問題に数理の光を当て、新しい理論を作ろうという方法のことである。60年以上も前の終戦後の日本で、工学は20世紀の数学とは分離していた。しかし、現代的な数学の仕組みを活用した新たな理論を建設したい、と夢見た工学のグループがあった。東京大学に創設した数理工学コースである。


 学生数わずか5名のこのコースに私は進学し、以後、大学院そして研究者として、数理工学の道を歩むことになる。研究対象は工学に限らず、数理科学全般に及んだ。
 そこから時を経たいま、数理科学の振興が叫ばれ、私たちの努力が着実に実りつつあるように思えるのは大変うれしい。


 脳は驚くほど複雑で精妙である。この脳の仕組み、その秘密が数理でわかれば素晴らしい。そうなれば、実験によるこれまでの脳研究と手を携えて、脳科学が理論を持つ科学に昇華するではないか。これは私たち研究者に向けられた大きな挑戦である。


 脳は生物の持つ器官であるから、古くから実証的な研究が進められてきた。解剖学に始まり、微小電極を用いてニューロンの電気活動を測定する電気生理学、さらに分子の立場から脳の仕組みを解明する分子生物学がここに参入する。


 最近はこれらが融合し、光遺伝学(オプトジェネティクス)という測定法が開発され、脳研究が大きく進んでいる。また、fMRI(機能的磁気共鳴診断装置)などで人の脳の活動を測定できるようになり、認知科学の人間研究と脳の研究が結びついた。計算論的神経科学と呼ぶ理論脳科学も勃興した。しかし、私のいう数理脳科学はこれとは少し違う。まだ「これからの科学」である。


 一方、脳に学び、知能機械をコンピュータによって実現しようという人工知能の研究がある。これにも60年の歴史があり、脳研究とは付かず離れずといいたいが、付いたり離れたりしながら、着実に成果を積み重ねてきた。チェス、将棋、囲碁で人間を凌駕し、クイズで人間のチャンピオンを打ち負かすまでになった。


 さらに、複雑なパターン認識の分野で、人間よりも優れた成果を挙げるに至っている。これには深層学習(ディープラーニング)といって、脳の仕組みを巧妙に取り入れた学習手法を用いる。ここでまた、人工知能と脳科学の急接近が始まった。


 脳の研究は面白い。脳の仕組みだけでなく、人の心を解き明かそうとしている。これは、社会と文明のありようにも関係するだろう。人工知能が人間の知能を凌駕し、社会に大変革が起こる技術的特異点が2045年頃に訪れるという説があり、脳の研究者もこれを他人事とみるわけにはいかない。脳研究は、いまや社会全体の関心事である。


 脳は未だに解明されたとはいえないが、それでも多くのことがわかってきた。道はまだ遠いかもしれないが、風雲は急を告げている。このあたりで私の考えてきたことを振り返り、脳の誕生、その働き、さらに心や文明、人工知能について、私の考えを世に問う時期がきたように思える。一数理工学者が考える脳の世界を、ここに披露したい。


 本書は、脳の誕生から始まり、現在までにわかってきた脳の仕組み、理論で脳がどのように研究されてきたかを辿り、数理脳科学にかかわる2つの章へと進む。ここでは多少の数式も出てくるが、式などは絵と思ってもらって、読み飛ばしていただいても差し支えない。そのあとで、人工知能がどう進歩してきたか、またその将来に話を進め、心の働きと文明や社会について想いを馳せて幕を閉じる。数理で、我々の心を解き明かせる日はくるのだろうか。


 私の考えをブルーバックスで市民の皆さんと分かち合っては、という誘いはもう30年ほど前にお受けしたが、気は動いたものの現実には執筆できなかった。研究が忙しかったからである。だが、私ももう傘寿を迎えた。この機会にと思い、楽しみながら本書を執筆した。


 出版に当たり数々の助言と励ましをいただき、細かいところまで気を配っていただいた講談社の小澤久氏、家田有美子さんに感謝したい。

著者 甘利俊一(あまり・しゅんいち)

1936年東京都生まれ。東京大学工学部卒業、同大大学院数物系研究科博士課程修了。工学博士。東京大学教授、パリ大学客員教授、ルーバン大学特任教授な どを経て、2003年より理化学研究所脳科学総合研究センター長。現在は、同センター特別顧問。東京大学名誉教授。神経回路網の数理的研究において数々の 業績を上げ、IEEE Neural Networks Pioneer賞(1992年)など受賞も多数。国際神経回路学会創立理事、同学会会長も務める。2012年には、文化功労者に選出された。著書に『情報 理論』(筑摩書房)、『バイオコンピュータ』(岩波書店/一九八七年 講談社科学出版賞受賞)など。

[B1968]

脳・心・人工知能 数理で脳を解き明かす

甘利俊一

心や脳の仕組みはどこまでわかったのか? 人工知能は「心」を持てるのか? 数理脳科学の第一人者が語る魅惑的な脳の世界。

定価 : 本体900円 (税別)

ISBN : 978-4-06-257968-1

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