経済数学の直観的方法 確率・統計編

経済数学の直観的方法 確率・統計編

著者 長沼伸一郎(ながぬま・しんいちろう)

序文

 実は本書は2つの性格をもった本である。1つは無論,姉妹編のマクロ経済学編と対をなす形で,経済数学の「二大難解理論」のもう一方である「ブラック・ショールズ理論」について解説することが目的である。この理論の難しさは,世の中で金融工学が話題になった時に「35歳以上の人間には理解不可能」などという台詞で広く喧伝されていたが,とにかく本書とマクロ経済学編の2冊で経済学の「二大難解理論」を制覇してしまえば,経済数学全体を俯瞰できるようになるというわけである。
 しかし筆者が見たところ,このブラック・ショールズ理論そのものが確率統計を学ぶには絶好の題材で,恐らく文系理系を通じてこれ以上のものはないように思われるのである。実際これを目標に設定することで,確率統計をかなり高度なレベルまで効率良く学べるのであり,そのため本書では,むしろこれをネタに確率統計そのものを根本的に学び直すということも,同時に目的としている。それゆえ見ようによっては,本書はむしろ『物理数学の直観的方法』の続編として,同書で抜けていた確率統計の話をまるごと補うための本だと思っていただいても良いかもしれない。
 
 それにしても一般に確率統計の話というのは,奇妙なことに理系文系を問わず,似たような苦手意識をもっている人が少なくないように思われる。それもかなり最初の段階の,標準偏差のあたりですでに話がわからなくなっているという場合が非常に多く,そして意外にも,文系と理系を比べると,むしろ理系の優秀な人がしばしばそういう悩みを抱きがちなのである。
 もっともそれは正確な言い方ではなく,実はこの段階で,ほとんどの人が理解を断念して全面的に丸暗記に切り換えているのである。例えば「偏差値」という言葉を知らない人はまずいないが,その一方でそれをちゃんと根本から説明できる人も滅多におらず,これなどはその典型だろう。そしてどちらかといえば文系の人のほうが丸暗記に切り換えることに抵抗がなく,すぐにそれに慣れて悩むこと自体を止めてしまうのに対し,理系の人はきちんと頭で理解しないと前進ができず,他の分野と比べてそこだけが腫れ物のように残って,確率統計そのものを嫌いになってしまうことが多いのである。
 しかしそうした丸暗記は,一時は良くてもすぐに欠陥を暴露し,それらはとにかく何度学んでもすぐ忘れてしまう。そしてその後も統計学を使う必要性は文系でも理系でもついて回るため,その都度再びゼロから学び直してはまた全てを忘れ,ということを延々と繰り返すうちに次第にトラウマとなり,もう標準偏差のシグマがどうこういう話は見るのも嫌,ということになってしまうのである。
 そして最近のビッグデータの潮流で再びそれが必要となり,今度こそ標準偏差あたりまで遡る覚悟で基礎をしっかり学び直して,そこから抜け出したいという方も少なくないだろう。
 しかしもし読者がそのように「標準偏差がよくわからない」という悩みを抱えていたとすれば,実はそれはむしろ健全なことなのである。なぜかというと,この概念が確立されるまでには,数学的にも複雑な紆余曲折を経ているのだが,高校レベルではそれらを説明しきれないので,実際には難しい重要部分を最初からカットして半ば無理矢理にきれいな体系に直して教えている。つまりその話にはもともと大きな欠損部分があるため,何の疑問もなく「わかる」ほうがむしろおかしいのである。
 その意味で読者が今必要としているのは,まさにそこを教えてくれる「中間レベルの本」なのだが,世の中にこれだけ統計に関する本が多く出ているのに,そういう本となると意外に少ない。実はそれらの解説書は全般的に二極分化していて,「やさしい統計」のように初歩の話題や個々のメソッドの使い方を丸暗記するための表面的な実用書と,高度でひどく難しい専門書の2つに分かれてしまって,それをつなぐ中間レベルの本が欠けているのである(それはブラック・ショールズ理論の解説本についても言えるだろう)。
 そして「中間レベル」という話で眺めると,現在の状況は何やら筆者がまだ26歳の時に『物理数学の直観的方法』を書いた頃と酷似していて,奇妙な既視感を覚えるのであり,そのため本書にはそこを一発で埋める本としての役割が期待されているように思われる。
 
本書の構成とスタンス
 では本書ではそのためにどういうアプローチをとるかというと,まず筆者には,それを理解する一番の鍵は,確率統計の体系をガウスらが樹立した時に,彼らの頭の中にどんなイメージがあったのかを想像してみることのように思われる。しかしどうも多くの解説ではその話がまるごと脱落している傾向があり,そのため本書では,最初にそこを一点突破することを基本スタンスに据える。
 
 まず初級編だが,大体今まで何度も挫折している読者の場合,多くの確率論の解説書で定番的に登場するような「サイコロの目の『場合の数』を数える」といった面倒な話はもううんざりだと思うので,本書ではそうした話を一切省き,冒頭でいきなりその核心部分に迫ることを試みる。
 そして本書ではガウスらの頭の中にあったと思われるイメージを,読者が恐らく今まであまり聞いたことのなかった形で語っており,最初の時点で頭の中にこれがあるかないかでは,その後の理解を決定的に分けることになるのである。実際それがあると,この確率統計という学問がどういう過程をたどって発展したのかが鮮明にわかり,標準偏差や偏差値などの概念がどこで難しくなったのかも立体的に見えてくる。そしてそれを一歩進めると,それらを簡単に理解できる裏ルートの存在が浮かび上がってきて,実際にそこを経由すればこれらは驚くほど理解が簡単になるのである。
 そのため今までそこで挫折していた読者の場合,とにかくこの初級編を読むだけでも,とりあえず確率統計に対する理解を根底から立て直せるはずである。
 
 そして中級編では初級編に続いて,確率統計を学ぶ際に最も重要となるいくつかの話題をピックアップして述べてある。それらは「最小2乗法」「中心極限定理」「ブラウン運動=ランダム・ウォーク」などであり,読者はとりあえずこれだけを覚えてしまえば,今後もっと進んで確率統計を学ぶ際に,何が来ても怖くないだけの基礎をひと通り身に着けられるはずである。
 またこれはブラック・ショールズ理論を作り上げるための重要な柱でもあり,そのため次にいよいよそれらを使って,一挙にブラック・ショールズ理論の直観的な本質に迫ることに挑戦する。本書ではその結論が172ページの見開きの図1枚に集約されており,極端なことを言えば,このパノラマ図をゴールにしてそれ1枚が頭に入りさえすれば,読者はこの理論の最も重要な直観的本質を理解できるはずである。そしてこの中級編までは数式もさほど登場せず,基本的にせいぜい中学レベルの数学知識があれば文系の一般読者でも十分読むことができる。
 またこのブラック・ショールズ理論の話の中には「相場が上がっても下がってもリスク無しに常に利益が上がる」という「無リスク債券」なるものが登場するが,その奇妙なメカニズムもこのパノラマ図が頭に入れば理解できると思われる。
 とにかく今まではこの理論を専門家以外の人間が理解するのが難しかったので,これは金融の世界の中だけの専門的な話だというのが世の中の常識だった。しかしこれによってそれが一般読者でも直観的に理解できるようになると,実はこの理論がもっと広範な話に応用できるものだということが明らかになってくる。つまりそれは,将来的に資本主義をどう設計していくか,などという問題にも応用しうるもので,そのためここではそのビジョンを通して過去の江戸経済やイスラム金融などを眺め,それを基に将来の資本主義への示唆を模索するという,一般読者にも興味深い話題を「教養としてのブラック・ショールズ理論」という形で,章の最後に読み物として付け加えてある。
 
 そして最後の上級編で,中級編では省かれていた数学的な部分をきちんと扱った本格的な議論を行う。まず前半部分では,いわゆる「確率微分方程式」と,そこで重要となる「伊藤のレンマ」について,その大まかな本質を直観的に理解することを試みる。特に後者に関しては,その意義が2枚の図に集約されており,読者はそれを目標にするとよい。
 一方後半部分では,中級編ではわかりやすいように多少デフォルメされていたブラック・ショールズ理論について,もう少し実際に近い形に修正することを行っている。実を言うと,この方程式を最後に解いて答えの式を出す作業自体は,うまい直観化や迂回の方法がなく,ここではその際の数学的なポイントをいくつか指摘するに留めている。そのためプロの読者にはここは少し食い足りないかもしれないが,プロの方はむしろ中級編までの議論を通じて,今までとかく後回しになりがちだった直観的理解の不足部分を埋めるために,本書を活用されては如何かと思う。
 また本書でも上級編の第4章で,マクロ経済学編の時と同様に,専門的に学ぶ際に必要となる数学的技法として,いわゆる測度論とルベーグ積分について,最短距離での解説を行ってある。
 
 なお本書は文系と理系の双方の読者が読めるよう工夫されているが,本書で「文系読者」というときは,基本的に高校数学を忘れて使えない読者レベルを想定しており,そのためたとえ文系出身でも,数学に熟達している方は本書では「理系読者」の範疇に含まれると思っていただきたい。
 一方理系読者の中には,金融用語に拒絶反応を示す人があるため,それに合わせて本書ではむしろ故意に素人くさい表現を選んである。というより筆者自身,金融の現場に身を置いたことはなく(一度ヘッドハントで誘いを受けたが結局行かなかったので)言葉の使い方も基本的に部外者のそれであり,そのため特に後半部分の記述に関しては,話自体が少しデフォルメされていることもあって,金融のプロの方が読まれるとそれがわかってしまうと思うが,そこはご容赦いただけると有り難い。
 
 とにかく本書の目的は,確率統計で挫折している学習者を一人でも多く救うことにあり,たとえ標準偏差のあたりで挫折していた人でも,今日から本書を読み始めて,2日以内には体勢を立て直すということも十分可能なはずである。そしてカンの良い人ならさらにそこから進んで,ブラック・ショールズ理論にまで1~2週間程度で到達し,それも越えてさらに確率微分方程式の入り口まで数日でたどり着いてそれを大まかに理解する,ということも,決して不可能な話ではないと思われる。
 ともあれ本書もマクロ経済学編と同様,いろいろな立場の読者が使える本なので,用途に応じて是非活用していただければと願っている。

著者 長沼伸一郎(ながぬま・しんいちろう)

1961年東京生まれ。1983年早稲田大学理工学部応用物理学科(数理物理)卒業、1985年同大学院中退。1987年、『物理数学の直観的方法』の出版により、理系世界に一躍名を知られる。「パスファインダー物理学チーム」(http://pathfind.motion.ne.jp/)代表。著書に『物理数学の直観的方法 普及版』(講談社ブルーバックス)、『一般相対性理論の直観的方法』『無形化世界の力学と戦略』『ステルス・デザインの方法』(以上、通商産業研究社)、『現代経済学の直観的方法』(電子書籍として右記著者サイトで販売)がある。

[B1985]

経済数学の直観的方法 確率・統計編

長沼伸一郎

現代社会を理解するために発展した経済数学。現代の金融工学の基礎を学び、ブラック・ショールズ理論の本質を直観的に理解する入門書。

定価 : 本体1,160円 (税別)

ISBN : 978-4-06-257985-8

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