人類と気候の10万年史

人類と気候の10万年史

中川毅(なかがわ・たけし)

過去に何が起きたのか、これから何が起こるのか

プロローグ 「想定」の限界

 2011年3月11日、日本列島北東部を巨大な地震と津波が襲った。町が丸ごと水に呑み込まれて流されていく様子は、デジタル家電とインターネットを通して多くの人の目にリアルタイムで刻まれ、自然災害と人間の生活について、災害慣れしているはずの日本人の価値観まで揺さぶる議論を巻き起こした。

 この地震には「前例」があったらしいことが、その後の報道によって一般にも知られるようになった。西暦869年の夏に、おなじく東北地方を襲った貞観地震である。津波は、海から大量の土砂を運びあげて陸上に特殊な地層を残す。貞観地震の津波の地層は、記録に残るいかなる津波よりも内陸にまで分布していた。つまり、現代人が忘れてしまった規模の津波が、今から1150年ほど前にはじっさいに起こっていたのである。このことをきっかけに、東日本大震災ほどの災害であっても、事前に「想定」できたはずだという議論が沸き起こった。

 誰が悪かったのか、あるいは悪くなかったのかの話は本書では取り上げない。自然科学は、善悪の判断に対しては本質的に無力である。その代わりに本書で考えたいのは、長い時間を視野に入れることで、世界はまったく違う顔を見せるという事実についてである。

 10年に1回の頻度で起こる災害なら、対策を立てることの必要性は明らかだろう。100年に1回の災害でも、人間の平均寿命をたとえば80年とするなら、人生の中でそれを経験する人のほうが多い。あるいは自分で経験しなかったとしても、事件は生々しい記憶として語り継がれている可能性が高い。

 だが1000年はどうだろう。日本で1000年前といえば平安時代である。平安時代に起こった事件について、切実な教訓を受け継いでいる人はおそらくいない。同様に1000年後の未来は、今の私たちにとっては無縁とも思える彼方にある。次に起こるのは1000年後かもしれない災害のために、税金から巨額の対策費を支出し続けることに、999年間いちども文句を言わない覚悟がある人はおそらくいない。

 さらに視点を変えると、1000年は人間にとっては非常に長い時間だが、地球の歴史の中では一瞬にすぎない。1万年に1回の災害は、1000年に1回の災害よりも甚大である。10万年や100万年に目を広げれば、それこそ「とんでもない」ことが起こる。そうした可能性のすべてを「想定」し、「対策」を立てることは現実的ではない。極端な例では、今からおよそ6600万年前、地球に巨大な隕石が落下し、恐竜を含む大半の陸上動物が絶滅した。そのような事件が近い将来ふたたび起こる可能性は非常に低いが、仮に起こると分かったとしても、有効と言える対策はほとんど存在しない。

 地質学的な時間を視野に入れれば、「想定」と「対策」に限界があることは明らかである。10年と数千万年の間のどこかに、私たちは現実的な線を引かなくてはならない。それをどこにするかは、究極的には哲学の問題であって科学の問題ではない。だが考察のための材料として、過去の地球でどのような「事件」が起こっていたのか、またそれらの事件が予測可能な性質のものだったのかどうか、知っておくことは重要である。

 地球の過去には、現代とまるで似ていない時代があった。現代の基準では「災害」としか表現できない出来事が、日常的に繰り返していたような時代もあった。じつは現代は、地球の歴史の中では比較的めずらしい、おだやかで暮らしやすい時代なのである。本書では、現代からはイメージしにくい地球のもうひとつの素顔、激しく変動する惑星としての表情について、最新の地質学的な証拠を元に紹介する。

 災害にはさまざまな種類があるが、本書ではとくに気候変動を取り上げる。中でも、今後100年でゆるやかに進行する温暖化といった話ではなく、もっと激しく暴れ回る「やっかいな」気候変動について、ページをやや多めに使って紹介しようと思う。

 地震や津波は、一瞬で何万人もの命を奪って人々に衝撃を与える。気候変動にはそのような激烈さはない。だが、たとえば1980年代にアフリカで起きた干ばつでは、数年の間に300万人以上が犠牲になった。少なくとも死者の総数で見る限り、その規模は東日本大震災の100倍を超える。

 飛行機は1回の墜落で数百人を犠牲にしてニュースになるが、自動車の事故で亡くなる人の数が、全世界の合計だと3日で1万人に達することはそれほど注目されない。ニュースとしてのインパクトの大きさは、出来事の深刻さを正確に反映するとは限らない。そういう意味では、気候変動は飛行機よりもおそらく自動車の事故に似ている。本書では、あまり認識されていない気候変動の本当の脅威について、新しい知見を元に考察する。

 有史以前の気候変動を解明する研究は古気候学と呼ばれ、基本的には地質学の一分野である。地質学は従来、数万年や数億年といった長大な時間を対象にすることが多かった。それだけ昔のことになると、年代の推定にも普通は大きな誤差がともなう。たとえば恐竜の大絶滅は、最近の研究ではおよそ6604万年前と推定されているようである。以前よりはだいぶ絞り込まれてきた印象だが、それでもこの推定にはまだプラスマイナス3万年の誤差が残っている。人間の視点で見れば、3万年と永遠の間にそれほど大きな違いはない。

 慌てて補足すると、人間の時間とかけ離れているからといって、その学問分野の価値が下がるわけでは決してない。大昔の出来事や生命進化の道筋を理解することで、人間はそれ以前よりもはるかに健全な世界観を手に入れた。このことは、突き詰めれば世界の平等や平和にまで貢献しており、その意義はどれだけ強調されてもされすぎることはない。

 だがいっぽうで、それほど長い時間の話に壮大なロマンや深遠な哲学はあるものの、本当の意味でのリアリティーに乏しいことは紛れもない事実であろう。だからこそ、10年の物語なら小説になりえるが、1000年の話は原則として教科書にしかならない。伝統的な地質学は、人間にとって馴染みの深い、数年から数十年の時間を扱うことをどちらかといえば苦手にしてきた。このことは、たとえば地球温暖化などの現代的な問題に貢献しようとするとき、古気候学の大きな足かせになっていた。

 年縞(ねんこう)と呼ばれる特殊な堆積物は、このような状況に風穴を開けることで脚光を浴びた。年縞とは、1年に1枚ずつ形成される薄い地層のことである。そのような地層を1枚ずつ削り取るように分析していけば、何万年も前に起こった出来事であっても、その推移を1年ごとに詳細に復元することができる。言い換えるなら、当時の人が幼年期、青年期、壮年期、老年期にそれぞれどんな変化を感じながら生きていたか、年縞を通して知ることができるのである。年縞研究の発展により、地質学は人間の時間との接点を手に入れた。これをブレークスルーと表現したとしても、決して誇張にはならないと個人的には思っている。

 年縞堆積物は世界の各地で見つかっており、年縞研究者の国際的なネットワークも存在する。だが、もっとも長く連続した年縞堆積物、いわば年縞のチャンピオンが日本にあることは、一般にはあまり知られていない。

 1991年の春、福井県の若狭湾岸にある水月湖(すいげつこ)という湖で、良質の年縞堆積物の存在が確認された。さらに1993年の調査では、地下の硬い岩盤に達する大深度の掘削がおこなわれた。その結果、水月湖の年縞は45メートルもの厚さを持ち、7万年以上もの時間をカバーしていることが明らかになった。日本の年縞研究は、この発見をきっかけにして本格的に幕を開けた。

 2006年の夏、私たちの研究グループは水月湖から最高品質の年縞堆積物試料を採取し、詳細な分析をおこなった。2012年には、水月湖の年縞に基づいた「年代の目盛り」が地質年代の世界標準に認定され、翌2013年からはじっさいに目盛りの運用が始まった。それまで日本ですら有名とは言えなかった福井県の湖は、「レイク・スイゲツ」として世界中の研究者にその名を知られるようになった。日本国内でも、水月湖は2016年の春から中学校の理科、社会、数学、国語の教科書に掲載され、さらに2017年現在、福井県若狭町の現地では、年縞を展示する専用施設の建設準備が進行している。

 こうして水月湖の年縞は、「世界一正確な年代が分かる堆積物」としての地位を確立した。だが、じっさいに研究をおこなう私たちは、同時にあるもどかしさを感じていた。年代の目盛りを作ることは、私たちにとって目標の半分でしかなかったのである。

 年代の目盛りは、長さを測る「ものさし」に似ている。ものさし自体は単に長さを測る道具にすぎず、即座に何かの価値を生み出すわけではない。正確なものさしが真価を発揮するのは、そのものさしで作った精密な機械が稼働を始めるときであり、正確な測量に基づいた地図が宝のありかを示すときである。私たちも、せっかく正確な目盛りを作ったからには、その「ものさし」を使って宝探しの旅に出てみたかった。

 私たちが探したかった宝物とは、過去の気候変動の証拠である。年縞堆積物の中にはいろいろな化石や鉱物が含まれていて、過去に起きた気候変動について知るための有力な手がかりになる。私たちはそれらの証拠をていねいに読み解き、水月湖の周辺で起こった気候変動の歴史を解明することをめざして研究を続けている。

 水月湖では、地質時代に「何が」起きたかだけではなく、それが「いつ」だったのかを世界最高の精度で知ることができる。タイミングが正確に分かるということは、変化のスピードや伝播の経路が正確に分かるということでもある。スピードと経路が分かれば、気候変動のメカニズムにまで切り込んで考察することができる。メカニズムが分かれば、より正確な将来予測にもつながっていく。水月湖研究の裾野は広い。

 水月湖の年縞堆積物から気候変動を読み解くプロジェクトはまだ進行中であり、今も続々と新しい知見が得られつつある。本書ではそれらの新しい発見のうち、とくに私たち自身の未来と関連の深いものについて、なるべく分かりやすく紹介してみようと思う。

 地質学的な過去の話なので、そこで展開される景色や変動の大きさは、私たちの日常の感覚とはかけ離れている。いくつかの発見は、古気候の研究者である私たちの予測すら上回っていた。いっぽう、現在はまぎれもなく過去の延長線上に存在している。過去にじっさいに起こったことであれば、いつかふたたび起こる可能性は常にある。

 気候変動の影響は私たち全員におよぶ。地球上でどんなことが起こりえるのかについて、より多くの人に知っていただくことは有意義だろうと思う。本書は、気候の面から未来について考察するための、具体的なヒントを提供することを目的としている。もし本書を読まれた後で、皆さんの目に世界が少しでも以前と違って見えるなら、本書の目的は達せられたことになる。

中川毅(なかがわ・たけし)

1968年、東京都生まれ。1992年、京都大学理学部卒業。1998年、エクス・マルセイユ第三大学(フランス)博士課程修了。Docteur en Sciences(理学博士)。国際日本文化研究センター助手、ニューカッスル大学(英国)教授などを経て、現在は立命館大学古気候学研究センター長。専攻は古気候学、地質年代学。趣味はオリジナル実験機器の発明。主に年縞堆積物の花粉分析を通して、過去の気候変動の「タイミング」と「スピード」を解明することをめざしている。

[B2004]

人類と気候の10万年史 過去に何が起きたのか、これから何が起こるのか

中川毅

1万年前、わずか数年で7℃もの温暖化があった。何万年にも及ぶ過去を克明に記録した地層「年縞」が明らかにする驚きの地球気候史。

定価 : 本体920円 (税別)

ISBN : 978-4-06-502004-3

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