痛覚のふしぎ

痛覚のふしぎ

伊藤誠二(いとう・せいじ)

脳で感知する痛みのメカニズム

はじめに

「我思う、ゆえに、我あり」と唱えた17世紀のフランスの哲学者デカルトは「観察できるヒトの行動は2つに分類できる──単純と複雑。単純な行動は、特定の感覚のように、いつも決まった同じパターンをひきおこす行動である。複雑な行動は対照的に感覚と行動が予期できず、意志の気まぐれに翻弄される行動である」と述べています。
 
 痛覚には、熱いものに触ったとき、反射的に手を引っ込めるという単純なパターンをとる「感覚的な側面」と、不安、恐怖、過去の記憶などの影響を受ける「情動・感情的な側面」の二面性があります。痛覚の感覚的な側面は生物がもつ基本的な警告反応の1つで、種の保存、生命の維持に不可欠な機能です。一方、痛覚の情動・感情的な側面はデカルトが言う、意志の気まぐれに翻弄される複雑な行動まで、さまざまな様相を示します。
 現在、病院を訪れる患者の最も多い理由は痛みです。痛みはだれもが日常生活で体験するものであり、高齢社会を迎えた日本にあって、痛みは人々にとって最大の関心事であり、人類有史以来の克服すべき課題なのです。
 古代ギリシャの哲学者アリストテレスが「痛覚は魂の苦悩」と言ったように、長い間、痛みは主観的、観念的であり、科学にはなりえないと考えられてきました。そして、科学が進歩する以前は、痛みがなぜ生じるのかを説明することは難しい問題で、患者の病気に伴う痛みの状態をうまく説明することができませんでした。
 ところが、1970年代から始まった分子生物学の進歩により、遺伝子のクローニング技術が確立し、痛覚に関する多くの機能分子の遺伝子やタンパクの構造が明らかにされました。同時に、神経伝達の基本であるイオンチャネル1分子の活動が、電気生理学的にとらえることができるようになり、神経活動や神経機能をタンパク分子として語ることができるようになりました。その結果、「外部の刺激がなぜ痛みを起こすのか」「どのように脳に伝えられて痛みとして認識されるのか」という痛覚の単純な行動を、分子レベルで理解できるようになりました。
 さらに、21世紀に入り、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)をはじめとする脳のイメージング技術の進歩により、脳の活動部位や神経回路網を可視化できるようになりました。このことにより、情動的・感情的要因に影響されるヒトの痛みの複雑な行動の理解が、急速に進みつつあります。そして今、脳科学はルネッサンスの時代を迎えているのです。
 
 2年前に講談社の能川佳子さんから痛覚に関する本の執筆依頼を引き受けたのは、その半年前にブルーバックスから刊行された一般読者向けの『記憶のしくみ 上・下』(ラリー・R・クワイア/エリック・R・カンデル 著)を読み感銘を受けたため。そして、痛みに関する総説や専門書は数多くありますが、生化学・分子生物学の立場から、分子に基づいた痛みに関する一般読者向けの単行本がないことが、『痛覚のふしぎ』を書こうと思った最大の理由です。同時に、痛みの研究が成熟期にあり、今後、執筆内容が大きく変わることがないとも考えました。
 
 第1章では、慢性痛を抱えるすべての読者に関係する「痛みを理解するうえでの基礎的知識と現状」をわかりやすく説明しました。20世紀末から、トウガラシの主成分カプサイシンの受容体が熱による痛み受容器であることや、生まれつき痛みを感じない先天性無痛症の原因が解明されてきたのです。そして、第2章では「痛みがどのように生じ、脊髄に伝えられるのか」という感覚面について詳しく説明しました。
 
 トウガラシが熱による痛みの受容器であるということがわかっただけでなく、ハッカや大根、わさびが、冷たさを感じる温度受容器を活性化するということも、次々と明らかになりました。痛みや温度受容器が、味覚、ヒトの嗜好と結びついているのは驚きでしたが、わたしたちは「激辛料理を食べると汗がでる」「ハッカ入りのガムを噛むと爽快感がある」ことを体験して知っています。この驚きは、痛覚、味覚、視覚、聴覚が、脳の共通の入り口である“視床”を通って大脳で知覚・記憶され、“舌が肥える”ことと結びついていると考えれば、なるほどと納得できるのです。
 
 ──ヒトは長寿で高齢社会を迎えているが、生まれたときにできたニューロンの大部分は、分裂することもなく取り替えられることもなく何十年生き続け、高次脳機能を担っている。イオンチャネルタンパク、シナプス上の受容体や神経伝達に関わる機能分子は、対照的に、早いもので数分、遅いものでも数週間で整備され、取り替えられている。どのニューロンも細胞内の分子的、生化学的なしくみを利用してパーツをとりかえ再構築している。このことにより脳は成長や学習に伴う可塑的な変化を可能にしているが、一方で神経機能を安定して維持するかという問題を抱えている──
 
と述べたレイクル(Marcus E. Raichle)は、現在脚光を浴びているデフォルトモードネットワークを提唱しました。ヒトは昼間活動した脳を休めることなく、毎晩、睡眠時間にデフォルトモードネットワークを活性化して神経機能を再構築し、記憶も書き換えているようです。
 第3章は「痛みの中枢はどこにあるのか」「痛みはなぜ主観的なのか」という痛みの根源的な問題である感情面に踏み込みました。そして、最近着目されているデフォルトモードネットワークやマインドワンダリングと痛みの意識の関係について説明しました。
 
 高齢社会を迎えた日本にあって、「ニューロンの欠落で本来記憶しているものが思い出せない、記憶すべきものが覚えられない」のが認知症であるのに対し、不安、恐怖、過去の不快な記憶は慢性痛の情動・感情面に影響します。これまでの研究で、脳での記憶学習のメカニズムと痛みのメカニズムには共通点が多いことがわかってきました。また、痛みに影響を与える負の記憶を消去するため、慢性痛の治療に認知行動療法が取り入れられはじめています。第4章は「痛みはなぜ増強し、持続するのだろうか」という問題について、脳の神経回路の可塑性と痛みの記憶という観点から説明しました。また帯状疱疹後神経痛でみられる「なぜ触刺激が痛みに変わるのか」という問題については、筆者の視点で踏み込んで説明しています。第5章では、痛みの治療の進歩と痛みとの付き合い方について筆者の考えを述べました。
 
 本書は、痛みに関心を持っている幅広い一般読者を想定して、わかりやすく書かれています。高校生レベルの生物の知識があれば、現在まで明らかにされてきた痛みのメカニズムを理解できるように、まずその原理を述べ、実験科学で明らかにされた事実の中から、その代表例に絞り、図を用いて、できるだけわかりやすく説明を行いました。同時に、痛みの研究を通じて知りえた人体の精緻な仕組みをよりよく理解するために、その実験結果の意味づけを行いました。一般読者の方が、『痛覚のふしぎ』から、生命科学や脳科学の面白さに興味をもっていただければ、著者にとってこの上ない喜びです。
 
 最後に、原稿をすみずみまで読んで、臨床の立場から適切なコメントをいただいた大阪医科大学麻酔科南敏明教授、論文等の図を一般読者向けに作図していただいた谷村絵理さん、本書の執筆発行でお世話になりました講談社のみなさんに感謝します。

伊藤誠二(いとう・せいじ)

1976年京都大学医学部卒業、1981年京都大学大学院医学研究科修了。アメリカ国立衛生研究所(NCI、NIH)Fogartyフェロー、新技術開発事業団研究員・グループリーダー、大阪バイオサイエンス研究所副部長を経て、1994年関西医科大学医化学講座教授、2007年から同副学長。がん遺伝子産物、ホルモン受容体と情報伝達機構、末梢神経再生や痛みの研究に従事している。

[B2007]

痛覚のふしぎ 脳で感知する痛みのメカニズム

伊藤誠二

痒いと痛いは実は同じ? ジンジン痛むとビリビリ痛むはどう違う? 鎮痛薬で痛みが消えるのはなぜ? 痛みのメカニズムに迫る。

定価 : 本体920円 (税別)

ISBN : 978-4-06-502007-4

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