睡眠の科学・改訂新版

睡眠の科学・改訂新版

櫻井武(さくらい・たけし)

なぜ眠るのか なぜ目覚めるのか

はじめに

睡眠は、高等脊椎動物では普遍的にみられる現象である。しかし考えてみれば、これは不思議なことである。

野生の厳しい環境を考えてみてほしい。睡眠中、動物は外敵に対してまったくの無防備になり、しかも活動もできない。だから、もし睡眠をとる必要のない動物が進化の過程で生まれていたら、生存競争を勝ち抜くうえで圧倒的に有利だったはずである。睡眠を必要としない生物が地球を支配していてもおかしくはなかったのだ。しかし、実際にはそうはならなかった。水中のような特殊な環境で暮らすイルカや、長時間を飛行する渡り鳥でさえも、睡眠の呪縛から逃れることはできなかったのである。

水中で泳ぎながら、あるいは飛行中に睡眠することはそれこそ命にかかわる。彼らは、特殊な環境で眠るために睡眠を進化させるという方法はとったが、眠ることを省くには至らなかった。彼らはそれこそ命がけで眠るのである。

このことからだけでも、睡眠は進化の過程でどうしても省くことのできなかった非常に重要な機能であることがわかると思う。「惰眠をむさぼる」という言葉があるが、睡眠は決して無駄なものではなく、動物が生存するために必須の機能であり、とくに脳という高度な情報処理機能を維持するためには絶対に必要なものなのだ。

一方で、睡眠や夢は神秘的なものでもある。とくに夢は、昔から宗教や芸術、文学の題材ともなり、心理学理論にも影響を与えつづけてきた。にもかかわらず、現代人のわれわれは「睡眠」に関してあまりにも無関心ではないだろうか。睡眠は単なる「休息」の時間と勝手にかたづけていないだろうか。確かに睡眠は休息の時間でもあるが、それは睡眠がもっている機能のごく一部にすぎないのだ。

私も睡眠の研究を始めるまでは、眠りについてかなりおろそかに考えていたと思う。限られた人生なのだから、睡眠を犠牲にしてでもほかのことをしたほうが有意義だと思っていた。しかし、睡眠の研究を始めてからはその不思議さに研究対象ということ以上にひきつけられることになり、睡眠を大切にするようになった。

睡眠は外部からの刺激がなくなったことによって起こる受動的な状態と考えがちである。しかし、実は睡眠は脳が積極的に生みだす状態であり、身体の、とくに脳のメンテナンスに必須の機能であることが明らかになってきている。本書では、睡眠が私たちの身体や脳の機能とどのように関わっているか、どのような役割をはたしているのか、そしてどのようなメカニズムで引き起こされているのかを解説し、睡眠とは何か、そして覚醒とは何かということを解き明かしていきたいと思う。

睡眠の科学はまだ未成熟な学問であり、解決すべきことも多い。なにしろ「なぜ眠る必要があるのか」という問いに対してすら、明確な答えが見つかっていないのだ。しかし、近年、睡眠と覚醒を制御する脳内機構が次第に明らかにされつつある。こうした知識は、われわれが生きるうえでプラスになることも多いと思う。

睡眠は動物の生存や生活に深く関わる生理現象であるにもかかわらず、分子生物学が隆盛をきわめた20世紀の最後の20年間にも、睡眠に関する理解には大きな進歩がみられなかった。しかし、20世紀の終わりに「オレキシン」という物質の発見があったことを契機に、睡眠科学は急速に進歩した。私はオレキシンの同定に関わり、その生理機能の解明をめざして研究を進めていくうちに、この脳内物質が動物の覚醒を制御するうえではたす巧妙なメカニズムに行きあたった。それは、従来の睡眠・覚醒という概念だけではなく、動物の行動や意識、感情などをも包括する、適切な覚醒状態を維持するためのシステムであった。

ヒトはその生涯の約3分の1を眠って過ごす。人生を約75年とすると、一生で実に25年間もの時間を睡眠に費やすわけである。これは食事に費やす時間と比較してもずっと長い。しかし、近年、ヒトの生活が多様化し、情報化していくなかで睡眠に与えられる時間も時間帯も不規則になり、不足気味になり、質的にも問題が出てきている。だからこそ、睡眠に目を向けていただきたいと思う。本書は系統的な睡眠学の本ではなく、睡眠と覚醒のメカニズムをわかりやすく説明した読みものとすることを心がけた。しかし、理解するためにかんたんな神経科学の知識は必要だと思われるので、それらの知識はコラムとして解説するか、あるいは章の中の随所にちりばめる形にした。そのうえで、近年急速に明らかになってきた睡眠と覚醒の科学を説いていくことにした。

ただし本書は最新の知見を集めた総説ではないので、今後修正されるかもしれない最新の知見に関しては、よほど確実なもの以外は扱わないことにした。現時点で確実と思われる知見で最先端の睡眠科学を述べたつもりである。

眠りの本質を理解すれば、誰もが営む眠りという時間をもっと大切にできると思う。現代はさまざまな要因から睡眠がおろそかにされがちであるが、眠りを味方につけることにより、時間はむしろ有効に使えるとすら言えるのである。本書により、読者が睡眠に親しみをもち、それによって、よりよい人生をおくるために何かしらのプラスにすることができたらなによりである。

なお、本書の出版に際してお世話をいただいた、講談社ブルーバックス出版部の山岸浩史氏、嘉山恭子氏に深く感謝の意を表する。

 

改訂新版へのまえがき

この本の初版が上梓された20102010年11月から6年以上の歳月が経ち、睡眠研究にもいくつかの進展があった。本改訂版ではそうした新しい知見の中で、本書で記載するに値するものを取り上げ、平易に説明することにした。

たとえば、2012年に学術誌に記載された睡眠時に脳の老廃物を処理する〝グリンパティックシステム〟についての記述を追加したほか、初版で「この本が出てから2?3年後には実用化される」と予想したオレキシン受容体拮抗薬が、2014年11月に実用化されたため、それも取り上げた。

そのほか、この数年で得られてきた知見をもとに、あらためるべき内容を改訂し、最新の睡眠科学の内容にブラッシュアップしてある。

櫻井武(さくらい・たけし)

1964年東京生まれ。筑波大学大学院医学研究科修了。医師、医学博士。日本学術振興会特別研究員、筑波大学基礎医学系講師、テキサス大学ハワード・ヒューズ医学研究所研究員、筑波大学大学院准教授、金沢大学医薬保健研究域教授を経て、現在、筑波大学医学医療系および国際統合睡眠医科学研究機構教授。一九九八年、覚醒を制御する神経ペプチド「オレキシン」を発見。平成十二年度つくば奨励賞、第14回安藤百福賞大賞、第65回中日文化賞、平成二十五年度文部科学大臣表彰科学技術賞、第2回塩野賞受賞。著書に『睡眠の科学』『食欲の科学』(いずれも講談社ブルーバックス)、『<眠り>をめぐるミステリー』(NHK出版新書)など。

[B2026]

睡眠の科学・改訂新版

櫻井 武

睡眠のキー物質「オレキシン」を世界で初めて発見したトップランナーによる大好評「睡眠入門書」を大幅更新・加筆してリニューアル!

ISBN : 978-4-06-502026-5

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