生命を支えるATPエネルギー

生命を支えるATPエネルギー

二井將光(ふたい・まさみつ)

メカニズムから医療への応用まで

はじめに

気の遠くなるような回数の細胞分裂と機能の分化を経て、私たちは受精卵からヒトへと成長してきました。このプロセスを支え、さらに私たちの生命を維持するためには「エネルギー」が欠かせません。

生物を支えるエネルギーは、どんなメカニズムでつくられ、どのように使われるのでしょうか。この疑問を、分子、細胞、そして生物のレベルから、考えていきましょう。数々の発見によって明らかになった、生物がエネルギーを使うメカニズムは、一つの壮大なドラマ(物語)といえます。

物語の前編は、生命にとって使いやすいエネルギー物質がつくられるまでの過程です。太陽光のエネルギーを植物がとらえて変換し、二酸化炭素と水から酸素と糖(炭水化物)をつくります。糖を私たちは植物からもらい、消化した後にグルコース(ブドウ糖)として細胞内に取り入れます。グルコースは段階的に化学的に変換され、細胞内の小器官ミトコンドリアで「アデノシン3リン酸」が合成されます。ここには酸素が必要です。アデノシン3リン酸というのは、英語名“adenosine tri-phosphate”の下線のa、t、p 3文字を取った「ATP」とよばれる化合物です。高等学校で生物を勉強した方は耳にしたことがあるでしょう。ATPは本書の主題であり、エネルギー物語の主役です。

ATPはヒトから細菌に至るまで、生命活動のさまざまな場面で、エネルギーを受け渡します。その汎用的な役割から「エネルギー通貨」といわれています。エネルギーが使われると、ATPは別の物質になりますが、すぐにつくり直されます。成人が1日に消費するATPを合計すると、なんと数十キログラムにもなります。ATPは生物が再生しながら多量に消費する重要な化合物なのです。

生物にとって欠かすことのできないATPを合成するのは、ある「酵素」です。それはどのような酵素なのでしょうか?――早くから多くの研究者が注目し、知ろうとしてきました。しかし、私たちが全体像を知るまでには、ほぼ50年の歳月がかかりました。

そして明らかになったのは、従来の酵素の概念から全く想像できなかった、合計22分子ものタンパク質が集まってできた生物機械でした。この機械は細胞一つ一つのミトコンドリアの膜にあり、水素イオンを使い、一部分を高速回転させながら、3ヵ所の触媒部位(反応部位)でATPを効率よく次々と合成します。回転速度は、ほぼレーシングカーのエンジンと同じです。回転が停止するとATPはできません。まさに、ATPを合成する生物機械です。この機械はどんなタンパク質から組み立てられているのか、動かしているエネルギーは何か、どのようなメカニズムか、このような疑問は物語の前編で解決します。

物語の後編では、ATPのエネルギーを使って生命が維持される姿を見ます。ATPから放出されるエネルギーは、私たちの筋肉の収縮や細胞内の小器官の運動に使われます。ただし、それだけではありません。実は、ほとんどのATPのエネルギーはイオンの輸送に使われています。神経の情報伝達、栄養の摂取、ホルモンの分泌、細胞内小器官の機能などは、ナトリウム、カリウム、カルシウムなどの金属イオン、さらに水素イオンなどによって支えられています。イオンの環境と循環は、生命の基本的な活動にとって非常に重要であり、そこに大きくかかわるのがATPです。

生命のエネルギーを知ることは、地球上の生物を理解し、進化の謎を解明することにつながります。しかし、それだけではありません。体内でエネルギーにかかわるメカニズムが破綻すると、いろいろな病気の原因となります。私たちが直面しているさまざまな難病、遺伝病、感染症、ガンや心筋症、胃潰瘍、骨粗鬆症などを生物エネルギーの視点から考え、それぞれのメカニズムを知ることが重要です。

このエネルギーの物語では、前編と後編を通じて、基礎的なメカニズムと同時にクスリや医療への応用も考えます。生物学分野の教科書では行われなかった試みです。化学反応や化合物の構造、細かい代謝経路などは専門書に任せ、長い年月にわたって科学者が努力してきた過程をたどり、最新のクスリや医療への応用に関する知識を解説していきます。

私たちは音楽を聴いて感銘を受け、絵画を見て感動すると、家族や親しい友人に音楽会や美術館に行くことを勧めたくなります。同じ気持ちから、筆者らが感動してきた生物エネルギーのカラクリの巧妙さと面白さ、未来へ開く可能性を伝えたいと思います。

広く読んでいただきたいので、専門用語はできるだけ避けて、丁寧な説明を心がけました。しかし、少しだけ難しくなってしまった箇所があるかもしれません。細かいことは気にせず読み進んでください。興味をもったところで、難しく感じた箇所に戻ると、より理解が進むと思います。

途中で解説すると全体の流れが中断するようなところは「豆知識」として別にまとめました。こちらも興味に応じて読んでいただければと思います。

読まれた後、私たちの体内では膨大な数のATPがつくられ消費されていること、そして私たちは生物として生きていることを実感していただけたらと思います。

2017年 秋
二井將光

二井將光(ふたい・まさみつ)

大阪大学名誉教授。日本薬学会および日本生化学会名誉会員。東京大学薬学部卒業。薬学博士。東京大学薬学部助手、岡山大学薬学部教授、大阪大学産業科学研究所教授・所長、微生物化学研究センター(現・微生物化学研究所)特別研究員などを歴任。生物がエネルギーを生産し使うメカニズムの解明に尽力。日本薬学会賞、持田記念学術賞、藤原賞、日本学士院賞など受賞多数。著書、編著、共編著に『薬学教室へようこそ』(講談社ブルーバックス)、『Handbook of ATPases』(Wiley-VCH Verlag GmbH)など。

[B2029]

生命を支えるATPエネルギー

二井將光

生命を支えるエネルギー「ATP(アデノシン3リン酸)」のメカニズムがわかれば、病気がわかる! 薬もわかる!

ISBN : 978-4-06-502029-6

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