5年後の浜辺──復旧事業は生態系をどう変えたか

永幡嘉之

東北の自然に魅せられ、生きものたちを撮りつづけてきた写真家は「あの日」から、巨大津波が生態系に何をしたかを追いつづけた。彼が目にした絶望と希望は、2012年4月に『巨大津波は生態系をどう変えたか』において報告された。しかし、東北の生態系はその後、彼が予想もしなかった方向へと変容をとげていた。
5年後のいま、「真の復興」とは何かを問う短期集中連載。

巣立ち後まもないオオタカ

第2回 栄えた青、滅びた青

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昔は豊かだった

 暑い朝だった。何を調べているのかと、軽トラックを停めて声をかけてきた地元の方と、しばらく話し込んだ。70代だという日焼けした肌には皺が刻み込まれ、その口からは、かつての海岸の姿がよどみなく語られつづけた。

 平野の水田地帯を緩やかに蛇行する一帯の川や水路は、ウナギの名所だった。竹の節を抜いた「タカツボ」という胴を2本束ねて川に沈め、あるいは冬になると鈎針(かぎばり)で、ウナギを採った。ナマズの産卵時期には、雨の夜にカンテラの明かりを頼りに突いた。4月のお祭り前後には、砂浜でハマボウフウの新芽を掘ったものだ。
 1961年に水田の耕地整理が終わると、水路が姿を消したこと。海岸林のなかに広がっていた沼が、廃棄物の埋め立て地になって消えたこと。2.4-Dという除草剤を使うようになってから、水路の魚が浮き上がったこと――。
 
 古老は懐かしそうに、こう結んだ。
「そりゃあ昔は豊かだった」
 礼を告げ、走り去る車を見送ったあと、以前は水田だった場所に歩みを進めた。
 そこには津波によって、たくさんの湿地ができていた。メダカが群れ、ミズアオイの葉が広がり、たくさんのイトトンボが足下から飛び立つ。農地化によってほぼ失われていた光景が、津波跡には随所に戻っていた。
 古老の脳裏にある昔日の光景には遠く及ばないとしても、「豊かさ」という点では、目の前の湿地は、戦後間もない頃のものと重なっているように思われた。

波を立てたメダカ

 (1)津波跡におびただしい数が見られたミナミメダカ(宮城県名取市 2012年9月)

 

 津波から1年が経過した2012年の夏。仙台平野の沿岸部の農道を歩いていた。道の両側の水面に、さざなみが広がった。人影に驚いて一斉に逃げる、ミナミメダカの群れ(1)だった。

 津波が来る前はビニールハウスの立ち並ぶ畑地として利用されていた一帯で、40年ほど前に切り開かれるまでは、マツ類が植えられた海岸林の一部だった場所だ。津波の直後には、倒伏したビニールハウスの鉄骨の間から水が湧き出していたが(2)、翌年には水草が繁る湿地となった(3)。

 少なくとも2012年の夏から秋にかけてまでは、仙台平野の多くの場所で、水たまりという水たまりにミナミメダカが見られた。試しに網を入れると、ひとすくいで百頭近くが入った。水面には多数のアメンボが群れ(4)、ヨシの芽を食べるクロベンケイガニに混じって、東北地方では少ないアカテガニや、宮城県では近年の確実な生息情報がなくなり、絶滅が危惧されていたハマガニ(5)の姿も見られた。

 近年ではメダカが激減し、国のレッドリストにも絶滅危惧種として記載されたことが新聞やテレビのニュースで何度も取り上げられたが、津波跡では広域にわたって大発生していたことが話題にのぼることはほとんどなかった。
 津波の直後には局所的にしか生き残っていなかったメダカは、どのように広がったのか。
 拙著(『巨大津波は生態系をどう変えたか』)のなかでも触れたが、雨が多量に降って増水が起きるたびに、多くの水たまりが網目のようにつながり、生きものは水から水へと分布を広げて、海岸林のなかの水たまりにさえ見られるようになったのだ。
 こうした場所はいずれ干上がってしまうことも多いが、増水で再び水辺がつながると、生き残っていた場所からまた広がる。
 ミナミメダカの劇的な復活の背景には、排水のための暗渠や水路が壊れて水が湧き出し、浅い湿地ができたことのほかに、河口部の大きな水門が壊れて、地下水位が広域にわたって上昇していたことが大きい。

 しかし水門の復旧と同時に、一帯の地下水位は大きく下がり、湿地や水たまりの大部分は姿を消して、メダカは一部の水路に残るのみとなった。

(2)津波の4ヵ月後に見られた湧水(名取市 2011年7月)

(3)農地の跡に再生していた湿地。(2)と同じ場所(名取市 2012年10月)

(4)2年目にも大発生が続いたアメンボ(名取市 2012年8月)

(5)宮城県では稀なハマガニ(名取市 2012年9月)

眠りから覚めた青

 人間が湿地を開拓するときは、まず水脈を断ち切って、表土を乾かすことから始まる。津波跡では、いちど農地化によって断ち切られた水脈が、地下水によって再び形成され、地表に湧き出して湿地を形づくった。
 盛夏になると、そこにミズアオイの深い青が花開いた。1年目は散発的だったが、2年目になると各地で水面を一面に覆うまでに咲き誇った(6)。
 ミツバチ(7)やマルハナバチの仲間(8)、ときにはイチモンジセセリ(9)というチョウも花を訪れ、脇にはナガコガネグモが網を張っている(10)。

 ミズアオイについても前掲の拙著で紹介したが、かつては水田雑草とされながら、水路の整備や除草剤の使用によって激減し、全国各地で絶滅危惧種になっていた植物だ。それがこれほどまでに復活したのは、津波によって表土が攪乱を受けたことで、土中で数十年前から休眠していた種子が発芽したためと考えられた。
 
 青い花が走行中の車内からも目立つため、津波跡地で花を咲かせたミズアオイは、復活した生命が大地を彩る光景として、しばしばニュースなどでも話題になった。
 ただ、その生育地は、本来は低湿地だった場所が古い時代に水田化されたところや、河川の氾濫原に限られた。近年になって新たに造成された地域では、ミズアオイの復活は見られなかったことを指摘しておきたい。
 農地そのものは人工的な環境だが、そこが自然環境に戻ったとき、生えてくる植物の顔ぶれは、農地になる以前の自然状態を反映しているのだ。かつて低湿地だった場所では、やはり湿地の植物として知られるノウルシ(11)の新芽が5月の畦を黄色く染めた場所もあったし、ミズアオイに混じってミズオオバコ(12)も白い花を水面に浮かべていた。

 津波から3年目になると、排水が進み、農地の表土も入れ替えられたことで、ミズアオイはほぼ姿を消した。かろうじて残っていた湿地でも、ガマやヨシが密生して植物の遷移が進んだために、やはり姿を消した。
 ミズアオイは洪水などで表土が攪乱される場所に生える植物なので、土中には大量の種子が眠っているはずだ。だが、復旧事業による土地の改変は、ほぼ拙著でも予想したとおりに進んでいる。今後、青い花が再び一面に開くような場面が訪れる機会は、まずないだろう。

 (6)農地跡を埋め尽くしたミズアオイ(宮城県亘理町 2012年8月)

(7)ミズアオイを訪れたミツバチ(亘理町 2012年8月)

(8)マルハナバチの一種(名取市 2012年8月)

(9)イチモンジセセリ(名取市 2012年8月)

(10)ナガコガネグモ(亘理町 2013年9月)

(11)畦の跡に群生したノウルシ(名取市 2012年5月)

(12)湿地に咲いたミズオオバコ(名取市 2012年9月)

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永幡嘉之

ながはた・よしゆき 1973年兵庫県西脇市生まれ。自然写真家。

山形県を拠点として、昆虫類を中心に動植物を調査する一方、絶滅危惧種の保全を継続的に実践。写真家としての主題は、ロシア極東地域と日本の里山を比較することにより、里山の歴史を読み解くこと。また、世界のブナ全種の森を歩き続け、動植物の調査を通して森の歴史を考え続ける。著書に巨大津波は生態系をどう変えたか』(講談社ブルーバックス)、『大津波のあとの生きものたち』(少年写真新聞社)、『原発事故で、生きものたちに何がおこったか。』(岩崎書店)など。

連載一覧

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