チーズの科学

チーズの科学

著者 齋藤忠夫(さいとう・ただお)

ミルクの力、発酵・熟成の神秘

はじめに

 「チーズ」という言葉を聞いて、みなさんは何を思い浮かべますか?


 学校の給食でもよく出てきた、三角形のプロセスチーズでしょうか。デパートの地下の食品売り場で見かける硬くて丸いチーズでしょうか。スパゲッティにふりかける粉のチーズや、ピザの上で溶けて糸を引いているチーズ、トーストにのせるスライスチーズという方もいらっしゃるかもしれません。もちろん、チーズといえばコース料理の最後に食後酒といただくブルーチーズやカマンベールチーズだという本格派の方もいれば、クリームチーズや手で裂いて食べるストリングチーズを思い浮かべる方だって(少数派にせよ)皆無ではないかもしれません。


 こうして考えてみると、チーズのイメージは人によって、かなりのばらつきがありそうなことに気づきます。チーズにはそれほど多種多様な形態があるということです。じつは、このように変幻自在に姿を変えられる「能力」は、数ある食品のなかでもチーズならではのものなのです。


 加熱してトローリと溶けたときの、あの独特の食感はチーズの魅力のひとつですが、加熱して溶けるタンパク質性の食品は、地球上にはチーズ以外には存在しません。手で簡単に裂くことができるのも、チーズ独特のタンパク質の構造に由来しているのです。


 一方で、チーズは健康によいともよくいわれます。ご存じのようにチーズは発酵食品であり、発酵食品はおいしくて体にもよいとされていますが、なかでもチーズの有用性はきわめて高いといえます。それは、原料である乳(ミルク)の成り立ちや成分の特徴に理由があります。私はよく、乳について、


「生まれてきた子どものために、食品として生合成された唯一の天然物」


 と表現しています。私たちがふだん食卓で食べている肉や卵も立派な高タンパク食品ではありますが、もともと食品としてつくられたわけではありません。それと比べて乳は、哺乳動物の母親が生まれてくる子どものために乳腺細胞で合成したものです。これを原料とするチーズは、哺乳動物の知恵がたくさんつまった食品といえるでしょう。とくに私は、世界でもトップを走る超高齢化社会を生きる私たち日本人にこそ、チーズを日頃から食べてほしいと願っています。日本人が直面している大きな2つの問題、「骨粗鬆症」と「筋肉減少症(サルコペニア)」を解決しうる、大きな潜在能力をチーズはもっているからです。実際、チーズの機能性は相当なもので、ごく一例をあげれば最近では、虫歯によって脱灰した(穴のあいた)部位の修復にも、チーズのカルシウムが有効であることがわかってきました。


 この本は、このようにほかの食品にはない特性をもつチーズを、「科学のナイフ」で切ってみせることをめざして書いてみました。チーズを使った世界の料理を紹介するグルメの方々向けの書籍や、チーズとワインの絶妙な組み合わせ方を紹介するハウツーものの書籍はたくさんありますが、科学的な視点からチーズの特徴と魅力をわかりやすく説明したものは日本にはないことに気がついたからです。多くの人にまず、チーズという食べものの「原理」や「しくみ」をよく知っていただきたい、そしてその面白さをスパイスにして、さらにチーズをおいしく食べることで、健康になっていただきたいと願っています。そのために本書では、チーズの種類、製造方法から、栄養学的な特徴や機能性、そして最先端の研究動向などについてまで、わかりやすく、かつしっかりと解説したつもりです。


 一方で、チーズは文化や歴史ともきわめてかかわりが深い食品です。日本で本格的に食べられるようになってからはまだ100年程度ですが、チーズの発祥は西アジアの乳文化にさかのぼります。そこから世界の国々へ広く伝播していく過程には、民族の誇りと食文化の歴史が濃厚に刻み込まれています。そこで本書では、チーズのそうした側面を伝えるエピソードや逸話も、随所で紹介しています。


 堅苦しい話にはならないように、極力心がけました。私は大学で「ミルク科学」という講義を担当しています。1年間の授業の最後には、必ず世界のチーズを学生に食べてもらっているのですが、これが大好評で、やはり「食の原点」は理屈よりもまず「食べてみること」なのだと実感しています。チーズの好みは人によってさまざまで、ブルーチーズを食べて「こんなにおいしいものは生まれて初めて食べた!」と目を輝かせる学生も、毎年必ずいます。将来、彼らが自分にいちばん合うお気に入りのチーズになるべく早く出会ってほしいという願いから、毎年続けている企画です。


 ですから私はみなさんにも、ぜひチーズをもっと食べていただきたいのです。残念ながら日本人は1年間に約2.2㎏しかチーズを食べていません(国際酪農連盟の2014年データ)。1日に換算するとたった6gほどにすぎません。しかも、その85%は「テーブルチーズ(おつまみ)」として食べられるだけで、家庭料理にはほとんど使われていません。日本人は海外の食文化を吸収し、自分たちに合うように発展させる能力が格段に高いといわれていますが、チーズについてはカスタマイズはまだまだはじまったばかりといえるでしょう。


 世界にはじつに1000種類以上のチーズが存在するといわれています。毎日違った種類のチーズを食べても約3年はかかる計算です。私自身はぜひ、「チーズ三昧」の3年間を送ってみたいと思いますが、ぜひみなさんにも、まずは世界に多種多様なチーズがあることを知っていただき、人生をより豊かにするためにも、たくさんのチーズを日常的に召し上がっていただきたいと思います。


 本書を手にとってくださったみなさんに、科学の視点からチーズの魅力に迫る旅をご一緒いただき、生涯の伴侶となるすばらしいチーズと一日も早く出会っていただきたい。それが、著者としての何よりの願いです。

著者 齋藤忠夫(さいとう・ただお)

1952年東京生まれ。1982年東北大学大学院農学研究科修了。農学博士。東北福祉大学講師を経て、1989年に東北大学大学院農学研究科助教授、2001年より教授。専門は畜産物利用学・応用微生物学。とくに機能性乳酸菌とヨーグルトやチーズに造詣が深い。日本酪農科学会賞、日本畜産学会賞、日本学術振興会第一回科学研究費優秀審査員賞、国際酪農連盟日本国内委員会第三回光岡賞などを受賞。『現代チーズ学』(食品資材研究会)、『ヨーグルトの辞典』(朝倉書店)など編著書多数。現在、アジア乳酸菌学会連合(AFSLAB)会長、日本酪農科学会(JDSA)会長、日本農芸化学会フェロー。趣味はピアノ演奏と海外旅行。

[B1993]

チーズの科学 ミルクの力、発酵・熟成の神秘

齋藤忠夫

溶ける、伸びる、裂ける――これほど自在に姿を変えられる食品は、地球上でチーズだけ!乳と菌と人の絶妙な合作を「科学のナイフ」で切る。

定価 : 本体980円 (税別)

ISBN : 978-4-06-257993-3

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