体の中の異物「毒」の科学

体の中の異物「毒」の科学

小城勝相(こじょう・しょうすけ)

ふつうの食べものに含まれる危ない物質

はじめに

 私たちが生きていくために必須の食物ですが、その安全性を脅かすさまざまな事件が起こっています。今なお世界各地で発生している古典的な公害による有害物質の混入はもちろん、放射性物質や発がん物質による被害、遺伝子組み換え作物、怪しげな健康食品や動物に投与される医薬品の残留物、抗生物質耐性菌やアレルギー物質をはじめ、従来は存在しなかった新たなリスクも続々と誕生しています。築地市場の移転先として大きな話題をよんでいる豊洲市場の問題もまた、その本質は食の安全を脅かすリスクが増すことに対する危惧にあります。


 食べものが含むさまざまな毒物――一般に生体異物(xenobiotics)といいますが、これに対するリスクを、科学はどのように扱っているのでしょうか?


 食物が潜在的に内包している毒性を研究する学問を、「中毒学」あるいは「トキシコロジー(Toxicology)」といいますが、本書は、中毒学の初歩を解説することで、食物の安全性や健康について科学的に考える基礎――最近の言葉でいえば、食の安全・健康に対するリテラシー――を養っていただきたいという目的で書きました。


「中毒学なんて、自分の生活にどう関わりがあるの?」と疑問をもつ読者もいらっしゃるかもしれません。けれども、実は、中毒学者は案外身近なところで、私たちの日常生活に大きな関わりをもっています。私を含む多くの中毒学者はふだん、大学などで基礎研究を行っていますが、国民生活に直接関係する問題を取り扱うことがあります。


 内閣府に「食品安全委員会」という組織があるのをご存じでしょうか。中毒学が積み上げてきた科学的知見に基づいて、客観的かつ中立公正に食品のリスク評価を行っている機関です。


 本文中にも何度か登場するこの食品安全委員会は、たとえば牛海綿状脳症(BSE)が流行した米国からの牛肉の輸入条件について提言したり、食品中の農薬や環境汚染物質、食品添加物、放射性物質などの健康影響評価を行ったりしています。また、特定保健用食品(トクホ)の審査を担当するなど、食品に関するきわめて広範で重要な役割を担っていますが、歴代の委員長をはじめ、委員のなかに数多くの中毒学者が含まれているのです。


 ちなみに、2016年10月の時点では、水銀などの金属による中毒に関する研究に長年従事されてきた佐藤洋博士が委員長を務めています。


 一見したところ縁遠く、また地味に思える学問ではありますが、基礎研究にはじまり、実際に食の安全を守る行政の現場にいたるまで、中毒学は私たちの食生活に対して重要な役割を果たしているのです。


 ではなぜ、食の安全性を評価するうえで、中毒学が中心的な役割を果たしている事実が、一般に広く知られていないのでしょうか?


 一つの理由として、中毒学に関する一般向けの解説書がほとんどないことが挙げられます。一般になじみの薄い分野であることに加えて、非常に本を書きにくい分野だからです。


 なぜでしょうか?


 毒物は、私たちの体が備えている健康維持の機構(しくみ)のどこかに介入することで、その毒性を発揮します。そのメカニズムを理解するためには、毒物である化学物質に関する知識と、健康維持のために生命が備えている機構の、両方の知識が必要です。


 それらを理解するためには、第一に化学の知識が必要になりますが、どうしても化学は敬遠されがちです。嫌われ者の〝亀の甲〟に代表される記号を多用することもあって、どことなく近づきにくい空気を漂わせています。最近は、高校で化学を習わなかったという人も増えています。


 わからないものに対して過剰な恐怖心が生じるのは当然ですが、自然は想像以上にシンプルな原理で成り立っており、化学反応もまた、きわめて簡単な原理で起こります。ほんの少しの基礎知識を押さえておけば、誰でも簡単に理解できます。本書はその、化学嫌いを払拭するための、ほんの少しのお手伝いをしたいと思います。そのため、高校化学の知識をもっていない人でも理解できるように書かれています。


 さて、もう一方の健康維持の機構についてはどうでしょうか。私たちの体は、巧妙に調節された膨大な数の化学反応の集合体として機能しています。


 一例を挙げると、血糖値(血液中のグルコース〈ブドウ糖〉の濃度)は、その増減をつねに注視しているいくつかの細胞から出される数種類のホルモンによって調節されています。たとえば、血糖値が低いときには、膵臓(すいぞう)のα細胞からグルカゴンというホルモンが血中に出されます。


 グルカゴンは肝臓に到達し、肝臓の細胞膜にあるグルカゴン受容体というタンパク質に結合します。その結果、受容体の構造が変化して化学反応を起こすことで活性化し、これをきっかけにいくつかの酵素がやはり化学反応によって次々に活性化されたり不活化されたりして、肝臓に蓄えられていたグリコーゲンを分解して血液中に放出します。その結果、血糖値が上がるという巧妙なしくみが秒単位ではたらいて初めて、血糖値を維持することができます。


 血糖値を下げる唯一のホルモンであるインスリンも、膵臓のβ細胞で血糖値の増減に対応して合成される化学物質によって、その分泌量が調節されています。このような分子機構を明らかにすることによって、新しい糖尿病の薬も開発されています。糖尿病を患う人も、自身が服用している薬の作用するメカニズムを正しく理解することで、病気と正しく向き合うことができます。


 同時に、体内に存在する多数のこのような分子ネットワークについて知ることで、生命を維持する巧妙なしくみに驚かされることでしょう。


 ところで、食品の安全性を守り、中毒の発生を防ぐためには、科学だけでなく法律をはじめとする社会的なしくみ・制度も必要です。そのために、国会、厚生労働省、農林水産省、食品安全委員会、消費者庁など、国としての機関が整備されています。しかし、食品は世界中で生産・取引されるため、一国だけで食の安全性を守ることは不可能です。そこで、世界保健機関(WHO)や国連食糧農業機関(FAO)、コーデックス委員会のような国際機関が設けられています。


 これら国内外の諸機関は、どのような基準で食の安全性を守ろうとしているのでしょうか? そうした国際基準をどのように作成するのか――ここでも、中心的な役割を果たすのは中毒学です。


 食の安全性については、「安全・安心」という言葉がよく使われます。安全性は科学的に評価できますが、「安心」は個々人の知識や感情、心理に左右されます。科学的な思考ができないために、ときには「ゼロリスク」を要求するような無意味な主張をする人を見かけることもあります。食品は、「安全か/危険か」という二者択一の発想ではなく、科学的な、すなわち、量的な評価が必要です。


 実は、現在の高度な分析機器を使えば、あらゆる食品、さらには空気からさえも、発がん物質を検出することができます。放射線は、宇宙から絶え間なく降り注いでくることはもちろん、身近な岩石やコンクリート、そして私たちの体内からも放出されています(「体内から」という意味は、私たちの体に、放射性元素であるカリウム40〈40K〉が含まれているからです。 40Kは、必須元素であるカリウムに0.01%は必ず含まれていて、体内から完全に除去することはできません)。


 このような前提で考えると、「含まれているかどうか」ではなく、「どの程度の量で、どの程度の影響が出るか」という量的な議論が必要になります。これもまた、中毒学の扱う領域の一つです。


 2003(平成15)年に成立した食品安全基本法の第9条には、「消費者は、食品の安全性の確保に関する知識と理解を深めるとともに、食品の安全性の確保に関する施策について意見を表明するように努めることによって、食品の安全性の確保に積極的な役割を果たすものとする」と書かれています。つまり、私たち消費者は、食の安全性に関して、よく勉強するとともに理性的・科学的な意見を表明することが求められています。


 そのためには、中毒に関する科学の知識が欠かせません。本書が、読者のみなさんにとって、そのような役割を果たしていただくための一助になれば幸いです。食の安全性を脅かす問題は、今後も次々と新たに発生することが間違いないのですから――。

小城勝相(こじょう・しょうすけ)

一九四八年、大阪府生まれ。一九七〇年、京都大学工学部合成化学科卒業、同大大学院博士課程、九州大学薬学部奨励研究員、マサチューセッツ工科大学(MIT)博士研究員、京都大学医学部助手、兵庫教育大学助教授を経て、奈良女子大学教授、放送大学教授を歴任。現在、奈良女子大学名誉教授・放送大学客員教授。薬学博士。専門は中毒学(毒物による酸化ストレス)、栄養学(生活習慣病を起こす酸化ストレスの評価法とそれに対抗するビタミン類)、生物有機化学(生活習慣病に関わる分子の定量法、地球生命誕生におけるL‐アミノ酸の起源など)。

[B1996]

体の中の異物「毒」の科学 ふつうの食べものに含まれる危ない物質

小城勝相

ふつうの食べ物に毒性物質が含まれていた!それらを無毒化する人体の巧妙なしくみとは?食の安全と健康維持に不可欠な「毒の知識」。

定価 : 本体1,080円 (税別)

ISBN : 978-4-06-257996-4

既刊一覧

連載読み物

脳が目覚める新発想
馬場雄二の「漢数パズル」

第7回 漢数パズル〈漢字算〉③ 回答編

馬場雄二

先週出題した以下の問題、あなたは解けましたか?   それでは、答えの...

2017/10/20

ページTOPへ